2年1組 文化班レポート



京の料理



歴史に育まれた京料理

 八世紀末の平安京建都以来、千二百年にも及ぶ歴史の中で育てられた京料理は、日本の料理文化とほぼ同義といっても過言ではない。徳川家康の江戸開幕によって江戸前と称する独自の食文化が発達し、料理はあたかも東西二分された感じがないではないが、新興勢力としての江戸町人の食生活も、京都人にとっては所詮は田舎料理とみなしてきた。もっとも、江戸っ子の中には、次のように言ったものもいる。
花の都は弐百年前にて、今は花の田舎たり 田舎にしては花残れり

風土に培われた料理

 四方を山に囲まれた京洛の地には、古くからその風土的特色を持った食文化が発達してきた。その一つは山の幸を中心にしたものであり、他は琵琶湖に近く、山紫水明処としての特色を生かした河州からの産物を中心にして食生活が行われていた。また京料理の特色の一つは取り合わせにあるといわれる。京都は海浜から遠いため、魚や鳥類を使用する場合に時として乏しい場合がある。だから塩引ものを使って、それらを上手に取り合わせた料理をするというのである。たしかに現在の京都でも、若狭のカレイやグチの一塩物を使ったり、昆布じめにして使ったりしているのは江戸時代以来の伝統ということができよう。

京でよいもの、悪いもの

 「南総里見八犬伝」で有名な滝沢馬琴は京都でもっとも入手しにくい魚類について次のように痛烈に批判している。
 京料理に使われる魚類の多くは若狭からくる塩小鯛や塩あわび、近江の鯉などである。しかも若狭のうなぎやはもは脂が強く、江戸前に比べると劣っている。また鴨川で取れる鮎はやせて骨がかたい。鯉こくに使う白味噌というものは塩気が薄く、甘ったるくて食べられた代物ではない。まあ京都で味のよいものといったら、麩・湯葉・芋・水菜・うどんくらいのものだろう。
江戸の馬琴からこのように酷評された京料理であったが、土地の利を生かした野菜類に関しては、さすがの馬琴も文句のつけようがなかったらしく、京野菜の味の良さは一応認めている。京の食文化はつまるところ、疏菜文化と言えるのではなかろうか。


信田妻

 安倍保名は、信田の明神で、芦屋道満の弟石川悪右衛門に狩り出された子狐を助けたため、悪右衛門に首を刎ねられそうになるが、悪右衛門の旦那坊主に化けた狐に助けられる。
 これを聞いた保名の父保秋は、悪右衛門を追うが、返り討ちにあう。しかし、その郎党三谷禅司は、よく敵を追いつめ、谷川で助けた少女の家で休んでいた保名と共に、これを討つ。
 保名は、助けた女と共に、信田の森近くで世を忍び、二人の間に出来た安倍童子も、はや七歳となった。しかし、野干(狐)の正体を童子に見られた母は、「恋しくば尋ねきてみよいづみなるしのだの森のうらみ葛の葉」の一首を残し古栖へ姿を消す。保名は、童子を連れて後を追い、夫婦親子の悲しい別れがある。
 成長した童子は、名を晴明と改め、天文道に通じ、道満との行力競べにも勝つ。
 占法に破れた道満は、部下に命じて保名を斬り殺すが、晴明が土壇を築いて祈ると、禽獣が肉片を持ち寄り、保名は蘇生する。父子連れ立って参内し、道満の首を刎ねる。



足立 , 大熊 , 後藤 , 高橋 , 高橋 , 中田 , 前川 , 山田