2−3 総合家庭科開発班



総合家庭科 難民と開発について





はじめに



 <難民>という言葉は私達の現代生活においては馴染みが薄い。しかし、それとは対照的に<開発>は私達の周辺いたるところで使われている。ということは<開発>あるところに<難民>なしということであろうか...

 そもそも私達は<難民>という言葉の意味を本当に理解しているだろうか。現況を知っているだろうか。また知ろうとする姿勢を持っているだろうか。私達はこれらの質問を今世界からされたとき、明確な答えを帰すことができるのだろうか。

 少し興味を持てば、私達でも問題のほんの一端の、そのまた糸口にすぎないかも知れないが、担うことができるはずである。

 ということで偉そうなことを書いたが、時間の都合上残念ながら、中身は充実したものとは言えない。さらに文献からの引用も多い。それでも読んでいただけるなら、うれしく思う次第である。
 なお《》内の文章はすべて引用したものである。
2年3組 開発班一同






難民の知識の補充



(1)難民とは...(難民の定義)
  @難民
  <難民>という言葉の定義について、『世界難民白書97/98』(国連難民高等弁務官事務所、読売新聞社)から引用して明らかにしていきたいと思う。私達が持っている<難民>のイメージと定義とは一致するのだろうか...

  《メディアや政治家、一般市民が「難民」というとき、それは、それまで生活していた土地を捨てざるを得なくなった人たち全般を指している場合が多い。こうした広い意味で使われる場合、「出身国を離れなければならなかった人」と「故郷を追われても国内にとどまっている人」の区別はほとんどなされていない。避難するに至った原因についても、あまり関心は払われない。迫害、政治的暴力、宗教的・民族的暴力、環境破壊、貧困など、何から逃れてきたかに関係なく、すべてが「難民」という呼び名に当てはまると考えられているのだ。

  しかし国際法のもとでは、難民という概念には、もっと限定的な意味が与えられている。1951年の「難民の地位に関する条約」(難民条約)(事項にて説明:筆者注)によると、難民とは「人種、宗教、国籍、もしくは特定の社会的集団の構成員であること、または政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという充分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けることができない者、またはそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まない者」とされている。(中略)

  難民という言葉をより広い意味で定義する考えは、1969年のアフリカ統一機構(OAU)難民条約にも現れている。この条約は、アフリカで脱植民地化と民族解放がすすめられた時期に難民問題が深刻化したことを受けてつくられたものだ。そこでは、こう規定されている。「難民という言葉は、外部からの侵略、占領、外国の支配、出身国もしくは国籍国の一部あるいは全体における公の秩序を著しく混乱させる事件によって、常居住地を去り、出身国もしくは国籍国の外に避難しなくてはならなくなった、すべての人々に適用される。」

  中央アメリカや南アメリカをはじめとする他の地域でも、難民に関する地域条約は、「難民」という言葉に広い意味を与えている。迫害のおそれよりも、社会暴力や無秩序といった出身国の客観的な状況を重視しているのである。こうした定義づけには、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所:著者注)も同調している。》

  となっている。とれを見る限りは、どうやら「難民」の定義は、非常に広いものとされており、私達が日常テレビ、新聞などから受ける印象をもって臨んでも大丈夫なようだ。

  A難民条約
  次に、前項で触れた難民条約(難民の地位に関する条約)について簡単にではあるが触れておきたいと思う。引用文献は『情報・知識 imidas1999』(集英社)である。

  《難民条約(Convention Relating to the Status of Refugees)
1951年7月28日、難民および無国籍者の地位に関する国連全権会議で採択し、54年4月22日発効(日本は82年1月1日発効)。この条約は、「51年1月1日前に生じた事件の結果として」難民になった者のみに適用されるため、国連はこの制約をはずす難民議定書を66年秋に承認し、これが67年10月4日発効した(日本は82年1月1日発効)。

  条約上は締約国の難民受け入れ義務はないが、自国に滞在する難民に対しては同化と帰化を促進し、積極的に諸種の権利を認めなければならない。日本は難民条約加入に際し、日本国籍者に対象を限定していた国民年金法、児童手当法などを改正し、国籍要項を撤廃した。(中略)97年12月末現在の条約当事国は131カ国。》

  となっている。日本における発行時期が遅く、全くびっくりさせられる。承認するのに28年もかかっているのだ。

  B参考...(国内避難民とは)

  難民の定義の中にも出てきていたが、何らかの事情で自分が元々住んでいた地域を退去せざるを得なくなった人々のことを国内避難民と呼ぶらしい。これについて難民と同じく『世界難民白書97/98』(国連難民高等弁務官事務所、読売新聞社)から引用してここに参考としてあげておく。
  《「国内避難民」という言葉は現在、人道機関や政策決定者によって広く使われているが、その意味はきわめて曖昧なままである。この言葉の正式な法的定義は、国際社会においてまだ確立されていない。解釈の違いをなくそうという試みは何度も行われてきたが、提案された定義の多くは範囲が広すぎるか狭すぎるかのいずれかで、研究上も現場で使うにはあまり意味がない。

  ここでは、「国内避難民」とは、迫害や武力紛争、暴力のために、家や住み慣れた土地を追われながらも、自分の国の中にとどまっている人たちを意味する。ただし問題が複雑であるため、この定義についても、いくつか論議を深めなければならない部分がある。

  第1に、国内避難民は、様々な状況で見られるという点を強調しなければならない。最近の文献では、国内避難民の発生と、頻繁にニュースになるような武力紛争との関連を指摘するものが多い。(中略)

  第2に、現在の国内避難民の研究は、生命を脅かされる状況から人々が自発的に避難する状況に焦点を当てており、武力の行使や人権侵害を伴う組織的な人口移動や移住には、それほど注意を払ってこなかった点が上げられる。(中略)

  第3に、他の研究で示されている国内避難民の定義とは異なり、ここで用いられる定義は原則として自然災害や開発計画、インフラ整備計画によって移動を強制された人々を除外している。なぜならば、そうした人々はしばしば物質的・精神的な苦難を味わうが、国家の保護を受けられたり、国から何らかの形で補償を受けるケースもあるからである。(中略)

  第4に、国内避難民を人道問題の独立したカテゴリーとして確立しようとする努力がなされているが、「強いられた移動」の問題がますます複雑になっているために、そうした努力もなかなか成果が上がらない。最近の例としては、旧ザイール東部がもっともよく知られるが、武力紛争の状況によっては、国内避難民が難民や地元住民と一緒に暮らしているケースである。たとえ法的立場が異なっていても、保護や援助を必要としている点では国内避難民も、難民も、地元住民も同じような状況にある。(中略)

  第5に、世界各地の国内避難民のうち、かなりの割合がとても危険な状況下で生活しているのは間違いない。しかし、彼らのニーズが、自国の保護を奪われたその他の人々のケースと、どう違うのかについては疑問が残る。もちろん、住んでいる土地を追われること自体、置かれた状況の不安定さをはっきりと示すものである。しかし、避難しなかったグループの窮状には、区別が付けられない。(中略)

  第6に、国内避難民については多くの文献があるが、いつ国内避難民でなくなるのかという問題はほとんど取り上げられていない。難民の場合には、もちろんこの問題は生じない。難民が自発的に出身国に帰り、その国で国民としての権利や義務を持つようになればもはや難民とは見なされないからである。しかし、国境を越えていない国内避難民の場合、問題はもっと複雑である。(中略)

  こうした定義の問題は、単に学問上の問題ではない。(中略)次のようにさまざまな理由から明確な概念が求められる。すなわち、1)人道問題に関する正確な統計などのデータを収集するため、2)国内避難民を保護する法的基準や法文書の確立を促すため、3)政府組織や国際機関など各組織の保護活動における責任分担を的確に行うため、などがその理由である。》

  少し、わかりにくくなってしまったが、まあそういうことか、っていうぐらいのことがわかってもらえれば、これに関してはいいと思う。

(2)難民(問題)の歴史

  @その始まり

  先ほども書いたように、難民という立場が難民条約によって国際的に明らかにされたのが1951年であることを考えると、すでにそれ以前から難民問題が存在したことは明確である。しかし、今、手元にある限りの資料ではせいぜい古いものでも1970年代のものであるので、それ以前のことについてはわかりかねる面がある。このことについては、又機会と時間があれば調査し、ホームページなどで公開できればいいかなと思う次第である。

  と思っていたらちょうどよい資料が発見されたので示しておくことにする。資料の引用元はMicrosoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation.である。
  《難民の歴史は古い。さかのぼれば聖書の出エジプト記も難民の記述である。近代では、カルバン派のユグノーとよばれた人々がオランダ、スイスへ大量にのがれたり、フランス革命時に王党派の人々が移民となって流出した。

 ☆第2次世界大戦前

  20世紀になると、1つの事件で発生する難民の数が増大する。19世紀末からつづいたトルコからのアルメニア人難民は、殺害されたり、ロシアにのがれたりした者の数が数十万にも数百万にものぼるといわれている。

1917年のロシア革命後、革命に反対するロシア人が150万人もヨーロッパ各地に脱出し、その保護のために、21年に初代の難民高等弁務官が国際連盟によって任命された。ナチスの台頭とともに、ドイツからユダヤ人難民が大量に流出し、その保護のために、33年にはドイツ難民高等弁務官が設置された。後に両者は統一され、39年に国際連盟難民高等弁務官の設置をみた。

 ☆戦後世界

  第2次世界大戦では、ファシズムの台頭によってドイツ、イタリアから追放された人々は14万人にものぼった。戦後も東西両ドイツからの難民は多数にのぼる。

  さらに、その後も朝鮮戦争、インドシナ紛争、中東紛争などが発生するたびに、大量の難民が発生している。なかでも、イスラエルの建国と中東戦争によるパレスチナ難民は現在300万人にのぼり、1949年には国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)が設置されている。71年のバングラデシュの独立の過程では1000万人もの難民が発生した。

  1975年には、サイゴン陥落後のベトナムから海をこえて脱出するボートピープルが、さらに79年からは内戦のつづくカンボジアからもタイへ多数の人々が難民となって流出している。80年代にはソ連のアフガニスタン侵攻やその後の内戦でパキスタンとイランに流出したアフガニスタン難民は500万人に達し、イラクのクルド人やイスラム教シーア派の人々、イラン人などが戦争や政治的弾圧で故国をはなれた。

  このように、紛争がおこるたびに難民の発生は後をたたない。近年では、戦乱などによってルワンダ、ソマリア、チャド、スーダン、リベリアなどアフリカを中心に、国境をこえた難民だけではなく、国内にとどまっているが難民と同じ状況にある国内避難民が発生している。

  また、中南米・カリブ海地域では、1959年のキューバ革命後に多くのキューバ人がアメリカや中南米諸国あるいはスペインへ脱出、70〜80年代にはチリ、アルゼンチン、ニカラグア、エルサルバドルから難民が流出した。さらに、ソ連・東欧諸国の社会主義体制の崩壊にともない、新たな民族紛争がもとになり膨大な国内避難民などが生じている。》

  この資料は非常にまとまりがよくよかったと思う。

  A具体例と対処機関の活動結果

  この項では、過去の国連難民高等弁務官事務所の活動などをもとに、実例に基づいた活動の進行とその結果を示していこうと思う。

   ☆スーダン生命線作戦

   《「スーダン生命線作戦」(OLS)は、スーダンの内戦による国内避難民や被災民を援助するために、1989年に国連によって始められた。この計画は中立の原則に基づき、開始当初は、紛争当事者の双方と交渉し、どちら側の非戦闘員に対しても、その窮状に応じて手をさしのべることを目指すという、他に類を見ないものであった。しかし最近では、OLSが根拠としていた原則が、いくつかの大きな課題を突きつけられている。

    スーダンでは、過去40年間にわたって、ほとんど絶え間なくない線が続いてきた。表向きは、イスラム教徒=北部の「アラブ人」と、南部のキリスト教徒の間で行われている権力闘争であった。しかしこの紛争は、植民地時代に権力と資源が公平に分配されなかったことにも根ざしている。政府と、南部の反政府勢力との間には、数多くの和平合意や停戦がなされたが、紛争はまだ解決されていない。反政府軍のスーダン人民解放軍(SPLA)が4つの党派に分裂したことも原因の一つとなって、ここ数年紛争は悪化している。各派閥にはそれぞれの指導者がいて、南部で別々の地域を支配しており、そのために闘争や不安定な状態がますます拡大している。

   ※限りなき破壊

    内戦はスーダンの一般市民に大きな被害を出した。何百万人もの人々が、スーダンの内外へ避難を強いられた。何万もの命が失われ、無数の社会基盤や農業資源が破壊された。そこで国際援助機関や拠出国が協力して経済支援を行い、戦争で被災した一般市民の窮状を救うために国連の主導で設立されたのがOLSである。

    OLSの当初の目的は、スーダン各地の避難民や被災民を対象に、主に食料援助の形で人道援助を提供することだった。しかし、1989年に開始されてすぐ、この活動は北部と南部に分かれた。北部での活動は、スーダン政府と協力して、国連開発協力(UNDP)が首都ハツレームに事務所を置いて調整している。南部での援助は、ケニア北部の拠点から国連児童基金(UNICEF)が調整して、主に反政府派が支配する地域で行われている。世界食糧計画(WFP)などの国際機関や非政府組織は、両方の地域で計画の実施を担当している。紛争当事者すべての同意を得て、紛争の両方の側の戦争被災民と避難民に接触するという原則は、OLSの特徴の一つである。この点で、南部での計画はおおむね成功していると見られている。計画が始まったばかりの頃、援助機関は紛争当事者間での暫定停戦合意を目指して交渉した。その目的は「静かな回廊」を設けて、援助の必要な人に手をさしのべるルートとして利用することだった。しかし後に、紛争の情勢が不安定なためにこの作戦では柔軟に対応できないとわかり、もっと柔軟な「開かれた回廊」という方法が採られ、紛争当事者とは対話を続けた。

    だが南部の治安が悪化して4人の援助職員が死亡したため、諸機関は「基本ルール」という最低限の行動基準を反政府軍派と作成した。中立性と自由なアクセスという人道的原則に忠実であるよう反政府勢力に求めると同時に、「子供の権利条約」やジュネーブ条約などに述べられた国際基準の遵守を求めたのである。基本ルールは、反政府勢力の行動を監視し、違反行為が起きたときに圧力をかけるための効果的な制度となった。UNICEFが苦心して調整した安全確保と避難の態勢によって、南部の戦争被災民へも接触できるようになった。非常事態が起きたときの職員の撤退条件も決めてあるために、これまでなら危険すぎると思われた場所ででも救援組織が活動できるようになった。避難態勢は、OLSと反政府グループとの間で効果的な共同作業関係がすでに確立された事実を示すものでもある。

    スーダン南部の避難民のうち少なくとも200万人が、北部へ向かったと考えられている。ハルツーム首都圏だけで約80万人が発見された。この大規模な問題に対して、避難民が首都圏へ移動するのをくい止めようとして、政府は強制的な移住・再定住計画で対応した。

    南部とは対照的に、北部のOLSは政府の支配が強く及んでいるため、OLSを展開できる地域は厳しく制限され、OLSの計画実施団体の選択も自由にならない。さらに、北部におけるOLSの調整機関であるUNDPは、政府との共同開発と、戦争被災民や避難民への援助という二つの活動の利害対立という問題を突きつけられている。OLSに関する最近の調査報告では、開発と援助の矛盾のために「所在地に関わらず、必要としている人」に援助を与えるというOLSの原則が尊重されなくなったとし、「紛争でハツレーム首都圏に逃げてきた人々が相変わらず危機にさらされているのは、北部におけるOLS最大の失敗を表している」と結んだ。」

   ※問われる意義

    このようにOLSは、その意義が改めて問われている。政府側は、南部での計画が意図しない方向に進んでいくと懸念して、国内の避難を禁止したり、NGOの活動を規制して、南部でも影響力を行使しようとした。OLSの中止を求めたことも何度かあった。同時に、南部での派閥間の争いで治安は深刻なまでに悪化し、一般市民への人道的アクセス(接触、援助活動)がさらに制限されている。

    一方、北部では、援助活動は食糧配給に限定されている。戦争被災民と避難民の人権や安全を守る活動には最小限の注意しか払われていない。国連とOLSは南部の戦争被災民への接触と引き替えに、北部での中立原則を犠牲にしたと批判する声もある。「南部である程度自由に活動できたとしても、それは北部の戦争被災民を犠牲にして手に入れたものだ」と最近の報告は結んでいる。

    このような状況から、OLSが将来も存続できるかどうか危ぶまれている。たとえ続けられても、OLSの大前提である自由なアクセスと中立の原則を尊重できないのではないかという懸念がある。「人道主義と戦争のプロジェクト」のラリー・ミニアは、OLSが「紛争そのものに縛られている」と述べた。「尊厳を著しく傷つける条件をのんででも援助を与えるのは、見せかけの人道行為以外の何ものでもない。」》

    というふうに難民を支援するためにも色々な問題をはらんでいるこの難民問題、解決にはまだまだ多くの問題がありそうだ。

  B現在の問題例と対処機関の活動

  次に、最近発生した難民問題について検証してみよう。ここでは記憶に新しいルワンダの難民問題についてみてみたいと思う。まず難民問題の原因となったルワンダの内戦から見ていくことにする。引用文献は Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation.である。

   ☆ルワンダ内戦

    《1994年4月、国連平和維持軍をルワンダに駐留させるための和平協定をFPR(ルワンダ愛国戦線)とむすんだ直後、ハビャリマナ大統領がブルンジのンタリャミラ大統領とともに首都キガリ近郊で飛行機事故にあい死亡した。ハビャリマナの死により民族暴動が誘発され、国連事務総長ガリはフツ族主導のルワンダ軍がツチ族を大量虐殺していると非難した。暴力行為が広がるさなか、民間人を保護する権限をあたえられていなかった国連軍は、キガリを放棄する。その後の数カ月で50万人ともいわれるルワンダ人が虐殺されたが、そのほとんどはツチ族だとされる。FPRの軍隊がキガリに近づき内戦に発展した。6月、フランス政府は2500人の軍隊をルワンダに派遣し、同国の南西部に安全地帯をつくろうとした。しかし休戦をよびかける試みは失敗におわり、FPRはキガリを制圧した。
    FPR軍の進攻によってルワンダ政府軍とフツ族の民間人は北西のコンゴ民主共和国との国境においつめられた。ツチ族による報復で数千人が殺され、キガリのカトリック大司教も殺害される。1994年7月中旬までには120万人と推定されるルワンダ人が国境をこえてコンゴ民主共和国に流出し、ゴマ市周辺には巨大な難民キャンプができた。8月初旬までには、内戦前のルワンダ全人口のおよそ4分の1が死亡、あるいは国をはなれている。難民をすくう国際救助活動が展開されたが、資材はじゅうぶんでなく、不衛生なキャンプの中でコレラや赤痢が流行し、2万人の難民が死亡した。

    1994年7月に休戦が宣言され、FPR主導の新政府が樹立されてビジムングが大統領に就任。FPRは、他のグループにも政府への参加をもとめた。国際的な支援があったにもかかわらず、交通手段がとぼしく、難民の数があまりにも多いために、コンゴ民主共和国とタンザニアの難民キャンプの悲惨な状態は改善されていない。ツチ族の難民が多数ルワンダにもどり、なかには60年代に出国した難民もいたが、フツ族難民の中には報復をおそれて帰国をこばむ者も多かった。

    ルワンダの刑務所は虐殺行為の容疑者などであふれかえり、劣悪な環境のため毎月数百人が死亡している。1995年12月には、国連の国際犯罪特別法廷が、タンザニアのアルーシャに開設され、96年5月から公判がはじまった。しかし、国連の人権保護の努力も資金不足でゆきづまっている。FPR政府は、94年4月の虐殺にかかわる犯罪の裁判を開始した。これに対して、主としてザイール(現コンゴ民主共和国)にあつまっている50万人以上のフツ族の難民の中には、FPR政府を転覆すべく武力活動をはじめようとする動きもある。96年4月、PKO(国連平和維持活動)でルワンダに駐留していた国連ルワンダ支援団のすべての要員が撤収し、いっぽう、ザイールでのツチ族系の武装組織と政府軍との戦闘の激化やブルンジのクーデタで大量の難民がルワンダに帰国、タンザニアからも96年末までに約47万人が帰国した。しかし、この大量の難民の帰国にまぎれてフツ族の過激派も帰国し、ふたたび部族間のテロが再燃した。タンザニアには、帰国をのぞまない難民が約6万5000人残留している。》

    次にこの内戦から発生した難民に対して行った国際機関の活動についてみていこうと思う。引用文献は1996現代用語の基礎知識(自由国民社)である。

   ☆国連ルワンダ支援団(UNAMIR)

    《一九九四年五月の安保理決議九一八で任務を追加された国連平和維持軍で、当初の支援団(UNAMIR)を拡大し、その任務を引き継いだ。二○万人以上が死亡したルワンダ内戦では、既に九三年六月に国連ウガンダ・ルワンダ監視団(UNOMUR、約一五○名)が派遣されていた。さらに、同年一○月、決議八七二でUNAMIRが設立され、ルワンダ政府とルワンダ愛国戦線(RPF)間のアルーシャ和平協定(九三年八月)による新政府樹立支援、停戦監視、治安維持や人道的援助任務に当たっていた。このUNAMIRは、内戦激化に伴い、当初二五○○名の派遣予定が二七○名に縮小された。しかし、ルワンダ内戦の深刻さからアフリカ統一機構(OAU)諸国等が大規模部隊の派遣を主張し、ガリ事務総長が五五○○名規模の第二次支援団派遣を安保理に勧告していたもの。新しいUNAMIRはUNOSOM2(第二次国連ソマリア活動→別項)型の平和強制(執行)部隊と異なり、自衛以外の武力行使権限は付与されておらず、また、アフリカ統一機構(OAU)を中心とした部隊提供・展開も大幅に遅れている。このため安保理は、九四年六月、憲章第七章に基づき、武力を含む必要なあらゆる手段の行使をフランス軍を中心とする多国籍軍に認める決議を採択した。フランス軍等二五○○名は、UNAMIRの本格展開までの二カ月間ルワンダに展開し、住民保護や治安維持に当たった。なお九四年一一月八日安保理決議九五五により、ジェノサイドや国際人道法違反の個人を処罰するためのルワンダ国際裁判所が設置された。》

    この資料を見てもわかる通り、紛争状態の地域での活動は治安の状態が非常に悪く、活動は困難なようだ。

    これでまず第1部の難民に対する知識の補充を終了することとする。





開発の知識の補充



(1)開発の行われ方

 まずここでいう開発とは、今まで述べてきたような難民発生国、もしくは開発途上国において行われている(行われた)国際協力に基づいた開発であることを念頭に置いていただきたい。それが前提である。

 さて、ここでもちろん必要となってくるのが「資金」つまり「援助」である。それでは現在その援助はどのような道を経て、開発途上国などに届けられているのであろうか。そのあたりを見ていきたいと思う。私たちの国日本を例にとって説明していくことにする。

 日本からは毎年ODAと呼ばれる援助が開発途上国などに対して行われている。ODAとは、先進各国から開発途上国またはそれに関する国際機関への資金の流れのうち、政府ベースで贈与されるか、あるいは金利・返済期間などで穏やかな条件を付けられ、開発途上国の経済の発展、福祉の充実を目指すような資金を指すものである。このODAの拠出額で日本は世界1位となっている(下の表参照)が、しかしこのうちの多くが贈与ではな
(http://www.geocities.co.jp/Berkeley/3370より)

く貸与であることが現在問題視されている。少し話が横道にそれてしまったが、元に戻そう。ではその日本のODAはどう行った経路で開発途上国へ届けられるのであろうか。その道筋は下に示した図のようになる。


 つまり、左側は一度日本から開発援助委員会(DAC)へ資金が流れ、その開発援助委員会が、先進各国から集まった資金をどのように使うか決定するのである。又、右側の援助、二国間援助は日本とその援助を受ける相手国との間で、決定されるものである。この二国間援助について政府は「政府開発援助大網」なるものをしめしているのでその大まかな内容をここに示しておこう。
 
《日本政府は一九九二(平成四)年六月、政府開発援助(ODA)の理念を内外に示す「ODA大綱」を公表した。これまで、日本のODAは経済的利益に傾き、理念をもたないとの批判がひろく行われてきた。ODA大綱はこうした批判に対して、従来国会の場で示されてきた人道的見地と国際社会の相互依存関係(南の途上国の繁栄が北の先進国の繁栄につながるという関係)という先進国援助の理由に加えて、環境保全、途上国の自助努力に基づく「良い統治」(民主主義的で汚職腐敗の少ない公正で自由な体制)実現による健全な経済発展支援等を挙げている。具体的に供与の際、考慮されるべき原則としては、(1)環境と開発の両立、(2)軍事的用途、国際紛争助長への使用の回避、(3)軍事支出、大量破壊兵器・ミサイルの開発・製造、武器の輸出入の動向への十分な注意、(4)民主化促進、市場経済導入、基本的人権、自由の保障への注意、の四点を挙げている。
援助の重点地域としてはアジア、最も開発の遅れたLLDCへの配慮を挙げ、このほか、ODAの効果的実施のために、途上国との政策対話、有償・無償等各種援助の有機的連携、他先進国や国連、地方自治体、NGO等との連携、民間技術の活用、女性・子供・障害者等社会的弱者への配慮等を示し、ODAへの理解と支持を得るための情報公開、広報・開発教育の強化の必要も指摘している。

 このDOA大綱は、DACの場等国際社会の世論を踏まえて、九一年制定されたODA四原則をさらに包括的な形で発展したものだが、民主化促進、市場経済化など個々の項目の内容をどう具体的に理解して、推進するかは、政府・国民の双方に残された課題である。》

 そういうことで(どういうことだ)援助の形態には大きく分けて、国際機関が仲介する方式と、二国間の相談で行われるものの二つがあるということを理解して欲しい。(もちろんどちらも環境への影響などについては考慮されている(ことになっている))

(2)開発の歴史

  @事実これまでの開発(成果と問題点)

  少し偏った例しか見つからなかった。有名なエビの問題である。引用元は一橋出版の『政治・経済』である。

  《☆誰のための開発か
    ※日本のODAで漁港建設へ(フィリピン ミンダナオ島)
     市内から13キロの地点に、漁港建設用地10ヘクタールが柵で囲われていた。入り口に「OECF(日本海外協力基金)」などの看板が目立つ。漁港建設は国際空港、道路、電話網、農産物加工センターなど開発計画の一環で、日本のODA26億5千万円で9月に着工するという。空港、道路などは米国、電話網はイタリアのODAだ。

     「開発計画は農水産物加工を促進し、輸送を改善するのが目的。零細農漁民が助かるし、農水産物の最大の輸入国日本にとっても利益になる」。各国からの援助で開発計画を実施する政府機関・フィリピン援助計画(PAP)の市内事務所の説明だ。

     この建設用地内には、22家族のモロの村があった。漁から戻ったランバ・アブバカールさんが憤然という。「70年代からここに住んでいるのに、立ち退けといわれる。補償もなく別の土地へ行けと。2年前突然フェンスができて、初めて漁港のことを知った。家が取り壊されるまで絶対に動かない」。

     若い漁民や女性も集まってきて、口々に訴える。「住民に何の相談もないのは納得できない」「誰のための開発なのか。漁港ができたら特をするのは大きな船主だけだ」さらには、「ODAがなければ漁港は作れない。我々零細漁民の生活を苦しくするのが援助なのか」と、ODAのあり方にも矛先を向けた。》

     これはあまりにも極端な例だと思うが、他にも少なからずこのようなことは起きているであろう。又環境への配慮は本当に充分であるといえたのか、など色々と疑問点が出てくる。これらはどうすれば解決できるのか...

  A私見これからの開発

  これからの開発援助はどうあるべきか。先に書いたような例はどうすれば解決できるのだろうか。ここで少し考えてみたい。

  まず問題なのは、援助される側の国の市民レベルの意見が全く無視されているということだ。彼らの意見を尊重できるようにすればもちろん先ほどの漁港の計画は変更されていただろう。今の援助では、あまりにも援助する側の国の利益、そしてされる側の国または有力者の利益が大きすぎる。そのしわ寄せがもっとも援助を必要としている人々にきているのである。どうすればよいか...

  かつて、何人かのグループでこのような問題について取り組むことがあったのであるが、そのときこういった結論が出た。直接市民同士をつなげて、市民レベルでの援助をしようというのがそれである。つまり具体的にいうと、姉妹提携都市(現在しまい提携都市を日本としているのはほとんどが欧米の諸国もしくはアジア諸国である(図参照))など
をして、つながりを作り、そしてそれを援助につなげていこうというものである。実現できるかどうかは別として、これはかなりおもしろい試みだなと感じた。
 おそらくこういった形の他にも何らかの形で市民主体の援助に、これからは変化してい
くのではないだろうか。






難民問題と開発の融合(問題の解決へ向けて)



(1)開発と難民問題は本当に融合できるか

 率直に言うと答えはNOYESです。その理由を以下に述べていこうと思う。

 まず、難民が発生する、これは仕方のないことだと思われる。すべての人の考え方や気持ちの持ち方が同じなら紛争も起きない平和な環境ができるかもしれない、しかし現実にはそんなことは不可能である。紛争は発生しているのである。難民は発生しているのである。それではどうすればよいか。その難民を「難民でなくする努力」をすればよいのではないか。開発とは少し路線が異なるかもしれないが、たとえば国内避難民の人々に対して援助を行い家を建設して提供する。これでも立派な開発援助ではないか。または、自国に逃れてきた避難民に対して恒久的な住宅を確保する、建設する。これもそうではないか。しかしこれらはあくまでも、難民である彼らの意思を確認した上で行うことが大切である。ただのおせっかいになってしまえば、双方何も得られないのだから...

 こういった大きな意味でとらえていくと、たくさんの問題をつなげることができるし、実際たくさんの問題がつながっているのだと思う。又そういった見方をしないと世界を見ることができないのかもしれない。

(2)これからの展望

  @現在の難民問題に対する当座の対処案

  現在発生している難民問題で難民となっている人数は、国連難民高等弁務官事務所が援助対象としている人(難民、国内避難民ともに含む)は4853712人であるという。これだけの人数を援助していくのは本当に大変なことであろうというのは容易に想像できることである。これらの人々の難民状態または国内避難民状態を一気に解消しようというのは、それはもうむちゃくちゃです。それではどうすればよいか。非常に現実的なことだが、原因となっている紛争なりその他理由なりを取り払い(取り払う努力を行い)、難民、国内避難民の人々が元の自分の土地へ帰った後の支援(生活復興や生活基盤の確保)を行うべきである。又、悲惨な状況がしばしばテレビで放映される難民キャンプに対してはその安全の確保と、特に子供に対する手厚い援助が必要であると、個人的には強く感じている。難民問題が解消した日のためにも...

  A難民問題の根絶への提案

  早い話が、紛争なり、その他の原因がなくなればよいのだが、これは理想の極みでそんなことは現実にはあり得ない、ということは前にも書いたとおりである。それではどうすればよいか。現在難民問題が深刻化しているのは、難民が大量に累積しているからではないかと思われる。前にも書いたが国連難民高等弁務官事務所が援助対象としている人(難民、国内避難民ともに含む)だけでも500万人近い数だという。実際はさらに多いであろう。こうなってしまえば確かに事態を好転させるのはなかなか難しいだろう。しかし難民が発生したそのときに対処すれば、前にも書いたが開発と絡めての解決は無理であろうか。今、はっきり言って先のインドネシアの例などでいうと開発が(厳密にはちがうが)難民を生んでいるといっても過言ではない。それならばその開発援助を難民が発生したときの初動に生かせるように資金を確保しておいてはどうか。そうすれば、生活基盤を失った人々を一時的(本当はそれではだめなのだが)にせよ受け入れることが可能となり、難民の発生が未然に防げるのではないだろうか。これはもちろん理想であり現在の難民問題が解決してから先のことをいっているのだから現実性はきわめて薄い。しかし、ほとんど人権など守られていない今の状況をこのまま放っておいてよいわけがない。どこかのえら〜い人がもっと柔らかい頭で画期的な解決法を見いだすことを期待してこの提案を終わりにしたいと思う。





終わりに



 かなりながながだらだらと書いてしまい、何が重要であるかが明確ではなくなってしまった。難民と一言にいってもその発生場所にはそれぞれの特有の事情があり、なかなかとらえにくかったことも原因かもしれない。しかし、今回の課題に対する私たちの予備知識というものはほとんど無に等しかった。これが何よりの原因である。

 私たちは、1年生の時南北問題で国際問題の一端をかじった。しかし、問題というのは数限りなくあり、私たちは常に何かを自ら知ろうとする気持ちを持つ必要がある、と再認識させられた。今回の経験を又、次につなげていきたいと思う。

 文体が統一されていないのは気のせいだと思ってください。(見直す時間がなかった...)
2年3組 開発班一同






参考文献



書 名
発 行 所
一   言
世界難民白書97/98
読売新聞社、UNHCR
この本は少しマニアックすぎ
トットちゃんとトットちゃんたち
講談社
黒柳徹子さんが書いた訪問記
イミダス98
集英社
おなじみの時事辞典
イミダス99
集英社
おなじみの時事辞典
政治・経済
一橋出版
政経に使った資料の本
エンカルタ98
マイクロソフト
パソコン版百科事典
現代用語の基礎知識
自由国民社
パソコン版時事辞典
各種ホームページ
該当団体・個人
本当にたくさんの情報がある



大木、尾崎、倉田、島、相馬、田尻、松浦、山崎