カロリーメイトから見た現代日本の食事情

2年2組 前 川 泰 則



はじめに

 数年前に発売されて以来ブームになっている「カロリーメイト」という食べ物がある。私は,前からこの食べ物に疑問を抱いてきた。というのは,この単なるおやつのようで何の面白みもない形をしたものが、朝食や昼食の重要なパートナーとなってきているからである。
 よく考えれば、こんなものが食事として受け入れられるのは奇妙なことである。私はここに現代日本において食事のあり方が変化してきているのではないか、と思い立った。そこで、今回は食事を中心にレポートしていき、「カロリーメイト」が現代の日本の食のどのような傾向を捉えているのか考えてみたい。



食事は儀式

 日本の場合、食事は朝・昼・晩の3回、食べる前には「いただきます」食べた後には「ごちちそうさま」。箸の持ち方などの作法といった,いわゆる決まりがいろいろと存在する。普段は何気なく行っているが,実に規則的なものである。このように考えると,食事というものが一種の儀式のように感じられる。儀式:いっていの形式をふみ,人々が威儀をただして行うもの(新選国語辞典)。威儀をただすとまではいかないものの,食事をするときはみんな席につくし,あまりだらしのない格好はしたくない。儀式というと宗教的な感じがするが,ヨーロッパでの食事の前のお祈りや,イスラムにラマダーンという断食の月がある所を見ても,結構納得できる。
 食事のとき,目の前にある食べ物は,結局のところ,何らかの死であり,命の痕跡である。それを取り入れることにより,自分自身の命をつないでいく。儀式というものは,本来,何らかの目的を持って行う。豊作を願ったり,恵みの雨を願ったり…。それらはどれも,人が明日への命をつなぎたいという意志によるものである。つまり,食事も儀式も根本的な目的は同じであり,また,どちらもレベルの差はあるにせよ,形式が存在する。やはり,食事は儀式的なものなのである。
 もちろん,食事を行うことには食欲という本能が大きく関係する。しかし、人間が食事をするのと他の動物が何かを食べるということの間に、何か本質的な相違を感じるのは,食事が本能だけでなく、儀式的要素を含んでいるからのように思える。



現代の"食べ物"に対するイメージ

 「この牛乳には一日分のカルシュームが含まれる。」
 「この果物にはビタミンCが多く、美容に良い。」
現在、このようなセリフを毎日のようにきくことができる。カルシウム、ビタミンC、鉄分、動物性蛋白質・・・・…。栄養学の発展と普及からだろうか。今ではほとんどの人が栄養素の名前と、その体に対する効果を知っている。食事を合理的に取り、健康を保つうえで栄養学の果たしている役割はとても大きい。
 しかし、困った事態も生じているように思える。食べ物が命の痕跡というよりも栄養素の存在としての認識に変わりつつあるのだ。今、「この魚を食べることは何を得ることを意味しますか。」という質問をしたら、大人の多くや、ませた子どもは、「蛋白質とカルシウム」とこたえることだろう。「この魚の命」と答える人はいそうにない。この食べ物の命の痕跡としての認識の薄れに拍車をかけているのが、スーパーやコンビニに並ぶ加工食品をそのまま食卓に出すという最近の傾向である。自ら調理する、言い換えれば、自らその死に直面せずして、それを命の痕跡として捉えることはできないのである。



儀式の崩壊 そして現代的食

 食事が儀式的であると先ほど述べた。ところが、現代では食事をいいかげんに取ることが多くなった。忙しさから食事そのものを取らなかったり、バスの中で取ったり・・・…。そこには形式は存在しない。儀式とは形式を重視するから、言わば儀式の崩壊である。そして、食べ物を栄養素として捉え、命を取り入れて自らの命をつなぐという意識の薄れ。こうしたのがバランス栄養食「カロリーメイト」である。確かに「カロリーメイト」は手軽に栄養を取れる。歩きながらや少しの休憩の間などで食事ができるが、そこには儀式性はない。忙しい現代社会において、それは生まれるべくして生まれた食べ物なのかもしれない。



終わりに

 私は食事の儀式性は、心の乱れを正す面でもとても大切なものだと思う。そして、食べ物が命の痕跡であるという認識を見直していくべきだろう。