人間らしいカニバリズム

2年2組 久 保 徳 子



はじめに

 「カニバリズム」と聞いただけだ「野蛮」とか「人間のやることじゃない」とか思い、それをひどく嫌悪する人は多いと思う。実際、私もこのレポートを書く前まではそう思っていたのだ。だが,少し見方を変えれば、カニバリズムは人間的な行為といえるのだ。それはいったいどういう見方なのか。私は自分なりに一つの意見を以下に提示してみようと思う。



 数年前、宮崎勤(被告人)が、自分をかわいがってくれていた大好きな祖母の骨をしゃぶっていたという事件はまだ記憶に新しいだろう。他にもヨーロッパに留学した日本人が恋人を殺してその肉を食べていたという事件もある。どうして,あえて人肉を食べたのか?もちろん,そうする以外に生きのびる手段がなかったというわけではない。(ここで断っておくが、私の意図するカニバリズムとは食人習慣のことで,遭難などの危機的状況の中での突発的な行動としての人食いは含まない。)では何故なのか?食べた人は食べられた人と一体になりたい,そう思って食べて,自分とその食べられた人とを同一化してしまったのではないか,と私は考える。カトリックのミサで聖パンをキリストの肉,赤ワインをその血として飲み食いするそうだ。これはあきらかにカニバニズムの痕跡だといえるのだが,これもまた,キリストの聖なる力を取り入れたいと思い,食べ,同一化するのだ。また,吸血鬼のモデルとなった女性は若く美しい女の血を吸い食べていたというが,彼女もまた,自分と若くて美しい女性を同一化して美しくなりつづけようとしたのだろう。日本の「雨月物語」の中にも僧侶が子僧の肉を食べる話があるが、これは前述の宮崎勤事件と同じことだろう。ナチスドイツの現れる前、ユダヤ人を虐殺する目的で結成された秘密結社では、同志がお互いに相手の血をすすっていたという。これも明らかに一体感を得、団結するためにやったのだろう。
 これらの事例から、"カニバリズム"の中には食べる主体者が食べられる者と一体感を持とうとし,同一化するという思想があると言えるだろう。ここでいう同一化とは精神的内面的なもので,主体者が勝手に一体となっていると思いこんでいるに過ぎない。しかし,それではこのカニバリズムと人間以外の動物の肉を食べることとは精神的内面的なものがあるという点で同じではないのだろうか。つまり、人間は、「食べる」とういことを単に栄養を摂るるためだけではなく、精神的なものを(例えば「おいしい」とか見た目の美しさとか)得るためととらえている。授業でやったように食と文化は密接な関わりがある。意味とか意義をもって私たちは食べているのだ。私が挙げたカニバリズムも,一体感をもちたいという意味があるのだから立派に文化的なことといえるのだ。人間以外のほとんどの動物は単に本能で食べているだけなのであるから。
 そしてまた,この一体感をもとうということは、自分の居場所を売る,つまりアイデンティティーにも関わってくるのだ。人間は誰でも、自分を認識しようとするので、この意味でもまた、カニバリズムは人間らしい行為と言えるのだ。


あとがき

 独創的に書けたと思う。一つのことが実は大変広い範囲の分野に関係があるのを知っておどろきました。できれば「歴史の中の米と肉」という本をゆずって下さい。またはかしてください。お願いします。



参考文献 「タブーの謎を解く」山内昶