「自然保護を問い直す」(鬼頭秀−)を読んで

2年4組 飯 島 末 奈



はじめに

1992年、世界文化遺産に登録された我が国の白神山地は、国連ユネスコの提唱するMAB計画の考えを導入した自然環境の管理計画に基づいて1995年から自然保護のあるべき姿が模索されている。筆者は、ここに見られるMAB計画が、米国などに見られる自然保護思想の延長上にあるものとして捉え、これに対して、白神山地の特に青森県側の、いわゆる「一周遅れの最先端」地域に、人と自然の深い関わりが今もなお残っていることを、環境の時代にとって、「生身」の生業を営む地域としてとりあげ、より共的(コミユーナル)な形で関わっていけるようなありかたを模索し、MA B計画よりも一歩進んだ自然保護を提唱している。
 私は、「食」をこの自然保護との関連の中で、レポートにまとめてみようと思う。



欧米に見られる「原生自然=ウイルダネス」

 聖書に見られるWildnessは、日本語では美しく訳され、「荒れ野」とされ、聖書では「荒涼とした、恐ろしい、耕作されていない(カルティベートされていない)秩序づけられていない」ところというイメージとしてあり、「荒れ野」は神によって秩序づけられるべきものである。野生動物は悪魔の手先であるとされている。
 キリスト教は、異教のアニミズムを破壊し、異教徒のもつ自然に対する諸感情に無開心で、自然を開発することができた。このことをリン・ホワイトJr.が「現在の生態学的危機の歴史的根源」の中で述べると、ジョン・パスモアは「自然に対する人間の責任」(1974)で、人間は神の代理人として責任をもって世界の世話を任されたスチュワート(執事)と述べ、人間中心的な環境保全の考え方を提示した。
 「保全」とは、人に都合のよい資源を保護することで、「保存」とは、破壊から守ることで人の活動を規制してでも保護しようという考えである。やがてこの考えは対立するようになった。
 米国のパイオニア精神にも、この「荒れ野」としての開拓されるべき自然が、そこに共生するインデイアンと共に対象としてあったわけである。その精神へのノスタルジアとして国立自然公園が大規模に保護されたのである。これは、大規模な動物園・植物園として残そうというものに近いように私は思う。
 なぜなら、そこに生業を営むインデイアンがいるにも関わらず、人の立ち入りを禁止するMAB計画でいうコアエリアを設けているからだ。これがMAB計画のウイークポイントである。
 米国に見られるこのような聖書やパイオニア精神から発想された自然保護思想をそのまま導入するには問題があるようである。



「生身」と「切り身」の概念

 私たちは産業革命を遂げた社会に生活し、スーパーで肉片をパック詰めで買う。まさに「切り身」しか知らないで食卓につく。そのもとになった動物が、どう育ち、どう屠殺され、どんな流通でマーケットに運ばれたかというような、社会的・経済的リンクを全く知らずに食卓についている。
 これに対し、あるどこかの遊牧民が自らの生活の中で、ある特定の社会的・経済的リ ンクともう一つの文化的・宗教的リンクの中での生業の営みの中で飼育し、特別な感情を抱いている動物を、文化的・宗教的リンクを持った特定の儀礼の中で自ら殺してそれを食べる営みは「生身」のあり方である。
 ここで、「生身」とは、筆者は次のように定義している。
 人が社会的・経済的リンクと、もう一つの文化的・宗教的リンクのネットワークの中で総体的に自然と関わり、不可分な関係の中で生業を営み生活を送っている一種の理念型の状態を「かかわりの全体性」と呼び、これを生身の自然との関係のあり方と定義する。
 そして、「切り身」とは、この二つのリンクが切断され、自然から一見、独立的に想定される人が人から切り離されて認識された「自然」との関係のあり方と定義する。
 「切り身」の生活に「生身」のあり方をリンクする方法を考え、自然との関係を回復することが私たちに必要なのである。



南北問題に見られる環境倫理

 私たちの「食」の例として、よく エビが挙げられる。スーパマーケットで買い、あるいは寿司屋で食べるエビは、ほとんど東南アジア産という。
 マングローブ林を伐採して、養殖され、私たちの食卓に輸入されてくる。これは、米国のハンバーガーの肉が南米の森林を破壊して牧畜された肉と同じである。
 近代の資本主義の産業活動と技術の進歩は、一方で、生物資源の過剰捕獲や環境危機を生じている。かつては自然と人の関係の安定性を崩さないよう、「切り身」化することなく、「生身」のリンクを形成してきたのに。それが現在、科学技術の自然に介入する程度を圧倒的な大きさにした人は、その潜在的な欲望をますます増大してしまった。これを南北問題とか資源の枯渇とか地球規模の環境問題としている。
 ここに求められるブレーキは、環境倫理の確立といわれる。その模索を世界がし始めている。筆者は、このような時に文化的・宗教的リンクのネットワークを結びつけ、全体として環境適合的なネットワークが形成できるような社会的なあり方を模索しなければならないと筆者は説く。



「食」の環境問題を解くかぎ

 「生身」と「切り身」の切れた関係を回復させる試みとして、環境教育や体験学習が手がかりになるとか、いのちの問題を深く迫った授業が学校教育で取り組まれている。
 「いのちに触れる ―― 生と性と死の授業」を展開した例では、実際にニワトリを殺し、体験して、「食」を考えたが、いのちから精神的な文化的・宗教的リンクのネットワークの回復をめざす必要が取り上げられている。この間題はさらに、精神面での変革から社会的変革に発展して、より広く社会的・経済的リンクにある人の社会的活動も重視していく必要へと進まねばならない。
 かつて、啓蒙主義が、野蛮・未開として切り捨ててきた伝統的な因習やタブーすら、「食」を考える環境問題において重要な役割をすると考え、再評価する必要を、欧米ではなく、第三世界や我国で唱え始められている。生業者や技術者の「魂」「衿持」も、筆者のいう「インタラクティプなタブー」として環境問題を解くかぎになるという。
 「遊び」としてのイチゴ摘みやサワガニとりなども、文化的・宗教的リンクが含まれ、複合的な自然との関わりがある。この「遊び」を通して子ども達に自然についての知識が伝承され、これが次世代の環境倫理と密接に結びついていくと指摘する。
 また、産直とのつながりも、これからはますます大切にし、援農や栽培法をリーフレットで知らせるような方法も、切れた関係につながりを回復する上で重要と指摘する。
おわりに
 わが国では、人が立ち入らないような原生自然はない。白神山地ですら、MAB計画で立ち入りを禁止したコアエリアには、昔から人が立ち入り、マタギやキノコとりが生業として関わってきた。
 入会地の歴史をもつわが国には、共的な管理もしてきた。
 また、八百万(やおよろず)の神を自然に認め、石にも木にも川や山にも神性を語り継いできた文化がある。
 この「生身」の文化がまだ、森林65%の国土に残っている間に、「食」の環境問題を解決する努力と環境倫理の確立を、私たちがしなければならない。
 21世紀は、人の生存にとって重要な世紀となるといわれている。
私たちの食卓には、自給できる食材がいかに少ないか。豊かな文明を維持するのは便利な道具ではなく、一人一人の「生身」の自然との関係を切らない豊かなこころではないだろうか。