食の不思議 ――― 「食」とは ―――

2年1組 後 藤 雄 哉



 僕は"「食」の不思議"というテーマを見たとき、すぐに『ひかりごけ』に関することを書こうと思いました。他人の死と自分が直面する死。極限状態における一人の人間の取った選択「食」。「食」の「目的」とは何か?「食」の「意味」とは何だろう?そんなことを考えてみようということを目的に、このレポートにとりかかりたいと思う。
 武田泰淳の小説『ひかりごけ』は非常に考えさせる作品だ。僕は読んだことはないが、テレビの特集で見てその日の夜「命」について考えたことがある。当時、中学生だった僕には重すぎたテーマだった。もちろん今の自分にとってもそうであるし、これから一生考えても答えが出るか分からないが、今は「食」に注目して考えようと思う。
 船が難破。二人の船員がいて、来る日も来る日も救助を待ち続け、その内一人が死んで、残った一人は極限の飢えと闘い、その果てに死んだもう一人の肉を食べた。そしてそのおかげで生き延びることができた、というのが事件のあらましである。
 ここで考えたいのは、やはり、「人を食べてしまった」という事実であろう。確かにすでに死んでしまっていた。そして、食べた時に意識は失ったと聞く。しかし、人間は人間を食べていいのか。生きているもののためには、死んだものを犠牲にしても許されるのか。そして、誰が許すのか。誰がそれを決める?そもそも「食」とは何なのか。大昔、人は「生きるため」に食べていた。場合によっては人を食べていたかもしれない。だが、その当時は厳しい自然の中で生きる動物の一種であったと考えると不思議でもなく、罪ともならなかったであろう。しかし、今はそうではない。もちろん「生きるため」にも食べるが「楽しみ」も含まれている。そして何より法によって守られた空間中で生活している。それが人を食べたことを問題にしている。
 つまり、動物の世界では何でもないことである。にもかかわらず人はそれを認めない。もちろん認めたら大変なことであるのは分かる。しかし、「食」というのが「生きるため」のものであるならば、極限状態において、「人を食べる」という唯一の手段をやむを得ずとったまでであると考えると、罪とはならないのではないか。しかし、実際は、いくらかの罪を負わされた。このとき、その食べた人自身はバツを望んでいたらしいので良かったのかもしれない。しかし「食」とは?と考えると、何か解せないものがある。
 今、人はいくつもの命を犠牲にして生きている。一つ一つを言っていけばきりがない。そんなことをしておいて、いまさら人間は駄目であるとは言えないのではないか。人は生きるためには食べなくてはいけない。しかし、時々人はその食べる行為がどのようなものであるか忘れてしまう。このような事件の時だけではなく、いつも、自分は自分以外の命で生かされていることを自覚していなければならない。「食」に対してしっかりとした考えを持っていなければならないのである。


あとがき

今回、僕はこんなレポートを書いたわけですが、もともと僕はこういうことを考えるのはけっこう好きで(あまり深くは考えないが)、たまに「生」や「死」や「宇宙ができる前は何があったのか」など考えているわけで、全体として、楽しんでやれたと思う。ただ、「食」と「文化」をからめたレポートも作ってみたい気がしました。