私のお茶碗
私のお箸

――― 日本と欧米の「食」の比較 ―――

2年4組 赤 尾 悠 子



はじめに

 普段私達が当たり前のようにしている食事。でも少し視野を広げてみると食事内容、食事方法など様々な違いを発見することができる。食事目的は同じなのになぜこのような違いが生じるのか。このレポートを作成するにあたって、日本人と欧米人の不思議な「食」の違いを、文化的背景やわかりやすい例を通して明らかにすることを目的とする。



 昔、お米は神からの賜りものだった。祖霊や神々に守られ、農民達が手間暇かけて実ったお米はそれゆえに神聖なものである。
 たいていの家庭では、自分専用のお箸、お茶碗が決まっている。我が家とて例外ではない。他人のお茶碗が自分の前に並べられていると食べるのに気がひけるし、ましてや他人が自分のお茶碗を使っているのを見るのはどうもいい気はしない。我々がそういうふうに感じるのは、どうやら神聖な米を他のものに冒されたくない一心からきているらしい。酒宴の盃やお茶会でのお茶は回し飲みするように、日本人の清潔性のためではないのだ。割り箸が莫大な資源の無駄遣いだと言われ続けながらもなお健在なのは、神聖な米を食べるための"お箸を共有すること"にこだわりを持っているからかもしれない。もちろん無意識的に。欧米では食器やナプキンにファミリーネームの頭文字がほどこされている程度の所有権主張で、"食器を共有すること"には特に固執していないようだ。
 我々の家には必ず包丁とまな板がある。包丁とまな板なしに料理するなんて考えられないぐらいだ。ところが欧米の台所製品売場では品物が豊富なのに、日本のような包丁とまな板は売っていないという。包丁はナイフの親分のような物、まな板はしゃれた絵柄がついていてチーズをきるのに適しているままごとのようなものしかないのだ。それでどうやって料理するのだろうか。なぜ日本と欧米でこのような違いが存在するのだろうか。実は、欧米では菜っ葉を手でちぎったり、肉をハサミで切ったりするし、ジャガイモには皮むき器を使うのだ。包丁やまな板はあまり必要がない。しかし、日本ではお箸を使用するため、お箸でつまめるほどにするにはこの2つが不可欠なのだ。我々はお箸に合う料理を好むのだ。料理がすでに食べやすい大きさに切ってあれば大皿から取り分ける必要はなく、初めから各自のお皿に盛られる。そして箱庭の様に、こまごました様々な料理がお膳の中に収められているのが日本料理である。幕の内弁当はその象徴ともいえる。それに対して欧米では、コースといったように一皿一皿違う料理が一種類ずつちょこんと乗せられている。バイキングの例を見ても、日本人は色々な料理を少しずつ一皿にのせる「幕の内弁当」式、アメリカ人は一皿ごと違った料理をのせて何度か席を立って取りに行く「コース」式だとか。(笑)日本人はご飯とおかずを交互に摂って食べるが、反対に欧米人は一品一品を順番に食べていく。白いご飯を前にすれば、アメリカ人は迷わず卓上用の食塩に手を伸ばす。食塩がなければ醤油でもご飯にかける。彼らにとってみればご飯もまたおかずの一品にすぎないのだ。
 先ほど"欧米では一皿一皿違う料理が一種類ずつのせられている"と書いたが、それらは盛り付けられた大皿から自分でよそうことが多い。自分でよそって次の人に回すのには時間がかかり、間ができる。そこに会話が入り、一緒に食事をしている人とテンポを合わせ、同じ頃に食べ終わる。一方、日本人はお米を神聖な物としたため食事中のおしゃべりは禁物であった。(それでも今ではかなりそういう家庭は減ったようだが、我が家は父親が古風なため未だそのスタイルをあまり変えてくれない。トホホ! そのためた家族で一緒に食事をしていても、黙々と目の前に出された料理を口に運ぶのだ。
 欧米人は個人主義、日本人は集団主義だとよく言われる。ところが今まで述べてきたことをまとめると、欧米人は大皿から特に誰の物とも決まっていないお皿へ料理を取り分け、会話を通して他の人と食事のテンポと合わせて同じ頃に食べ終える。日本人はというと、初めから各自のお皿に盛りつけられたおかずを、自分のお茶碗のご飯と一緒に自分のお箸で黙々とマイペースで食べ、バラバラに食事を終える。なんと「食」に関して欧米人は集団主義、日本人は全くの個人主義で逆転してしまっているのだ!「食」とはなんとも不思議で興味深いものである。


あとがき

 普段何も気にせず深く関わっている「食」だが、調べてみるととても奥が深く、色々考えさせられてとても勉強になった。だいぶこれのおかげで精力を使い果たしたけれど・・…。
はあ疲れた。



参考:「箸とフォーク」宗任雅子