愉快な食事マナー

2年3組 美 間 由起子



はじめに

 食事のマナーというのは時に非常に滑稽だったりするものである。西洋料理のナイフとフォークの使い方。箸の持ち上げかた。各国の物を調べればもっとあり、そんな中には到底わたしには理解できないような美学が存在する。現地の人や文化を馬鹿にする気はないが、わたしの感性でいろいろなマナーを解釈していこうと思う。



 まずびっくりしたのがインドネシアである。食べ物も飲み物も、全部食べたら追加を督促している様だから、最後は少しずつ残すのがエチケットだという。まあ、食べ物はまだいいとしよう。残ったのはその家で食べるかもしれないし、食べ物を督促されてるなーと思ってから料理して何かを出してそれに手をつけられなかったりしたらそりゃムッとくるだろうから。しかし飲み物って、なんだよ。その残った飲み物、どうするんだよ。まさか他人のを飲むわけにいかないだろ気色悪い。てことは捨てるのか。もったいないっ!
 そんなみみっちいいことを考えるのがいけないのかもしれないさ。まあちょっとくらい飲み物捨てたって、なあ。とかいう考えはどうしたってわたしはあきらめてからしか出てこない。わざわざマナーすることがそれは?飲み干して足そうとしたら「いえ、結構ですから」それでいいんじゃないかよっ。飲み物残ったコップなんて運ぶ時ドキドキだし、洗っても水質汚濁だぞ分かってんのかこら。こういうとこがマナーってわけ分からないのだ。
 次に不思議だったのがオーストラリアである。オーストラリアでは、食事中でもスプーンやフォークを手で持ち続けているそうだ。そのくせパンは手でちぎれと言う。その間はどうするんだやっぱどこかにおくんだろ?もちろん何か飲む時だって置くだろう。じゃあ一体いつそのマナーは生きるのだ?それともこれは間髪入れずさっさと食べるという習慣を密かに主張しているのだろうか。持っているというのは持ち上げているということなのか、柄を握っているというだけのことでもいいのか、よくわからないところもまた気にかかる。だいたい、マナーっていうのは存在意義が微妙なのだ。どれが「やらなきゃ嫌がられるようなこと」でどれが「癖とか習慣みたいなもの」なのか分かんないのだが異国のなんて。
 別にオーストラリアなんて行かないからいいけどさあ。
 他になんか想像すると笑えるのがアメリカだ。食事中に皿を間違えたりしてウエイターを呼ぶ時は、声は出さずに、眼が合うのを待つか右手を顔のあたりまであげて合図するという。声出して呼んで無視されるのこっ恥かしいものだけど、必死で目をあわせようとキョロキョロしなきゃいけないのもたいへんだろうなと思う。右手をあげるのも、ずっと気付いてくれなかったら悲惨だけど、張り切って上げて回りの人に間違ったことバレバレなのもまた恥かしいだろう。男らしくささっと一発、ウエイターを呼ぶべきだと思う。
 それから妙なのがロシアのパンを、すごく大切にする風習があるようなのだけど、そのパンを食べる時はナイフで切ってフォークでたべるらしいのだ。なんて食べにくい。あんなフワフワしたもんどうやってフォークに刺すんだよ。中途半端にさしたら落っこちそうだし。落としたら駄目なのに。そんな、パンだって別にナイフとフォーク使ってもらったって、「手じゃないぜいえーい高級感!」なんて小躍りしたりはしないだろうに。手で食べたほうが絶対、安定感がいいのになんでそういう矛盾じみたことをするんだか理解できない。
 というのはもちろん、私の勝手な考えであって、マナーってのはもっと深い豊かなところに意義を持つのかもしれない。それが美しいのだと、正しいのだとみんな思っているのかもしれない。
 でも、それがまた面白いのだ。人が何か自分に理解できない型にはまっているのを見るのはなんだか空しいけど一方めゃくちゃ面白い。馬鹿にしてるというのかもしれない。でもマナーなんて所詮、ただの決まり事。それぞれの地域の国柄とか宗教とかが反映されているだけであって、真実のマナーなんてないのだ。もし突然人類が滅び、新たな人類が一個所に固まって成長していたりしたら、一体どんなマナーが作られ残されてゆくのか、そんなことが気になる今日この頃である。


あとがき

 なんだかメチャクチャな文になってしまった。しかし、このレポートのために借りてきた本を読んだら、新たなこといろいろ知れたし、そういう意味では有意義だったと思います。この宿題。